COLLECTIONコレクション

コレクション

島根県立美術館では絵画、彫刻、工芸、写真等、各分野の優れた作品を収集しています。
とりわけ次の領域において重点的に収集活動を行っています。

[収蔵作品点数]
7,623 (2024年3月31日現在) 収蔵品データベース
[分野別点数]
  • ●西洋絵画42点
  • ●工芸482点
  • ●国内油彩画257点
  • ●写真2,703点
  • ●近世絵画・日本画470点
  • ●彫刻87点
  • ●版画3,321点
  • ●書跡20点
  • ●水彩画27点
  • ●デザイン94点
  • ●素描120点

水を画題とする絵画

ギュスターヴ・クールベ《波》1869年

 宍道湖の景観と調和するように建設された当館は、「水を画題とする絵画」を作品収集の重点領域としています。生命にとって不可欠な水は、人間の生活と深く関わり、多くの絵画作品に描かれました。
 豊かな自然に恵まれた日本でも、水は様々なかたちで表現されてきました。中国絵画の影響を受けながら進展してきた近世以前の絵画、西洋の美術にも大きな影響をあたえた浮世絵、そして西洋との交流が大きくなった近代以降の日本画と洋画まで、水の描き方には、それぞれの時代、様式や技法が反映されています。
 一方で、西洋では近代以降、絵画の主題としても自然そのものが注目され、現実の風景を描いた風景画が重要なジャンルと考えられるようになります。なかでもその後の美術の流れに大きな影響力をもったコローやクールベ、印象派、フォーヴィスムの画家たちは、水をモティーフとした風景画を数多く描きました。
 日本と西洋の画家たちによるさまざまな水の表現をお楽しみください。

クロード・モネ《アヴァルの門》1886年

クールベとモネのエトルタの風景

 クールベは、ほとんど独学で画家となり、現実を見たままに描こうとしたフランスの写実主義の画家でした。ノルマンディー地方のエトルタに滞在し、波と海をモティーフにした本作のような風景画を多数制作しています。印象派の代表的な画家モネも、クールベの《波》と同じエトルタの風景を何点も描いています。アヴァルの門やエギユ島などの断崖や奇岩の光景は、ノルマンディー海岸一帯の景勝地のなかでも最も有名なものです。

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葛飾北斎《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》(永田コレクション)
天保初期(1830~34)頃

北斎がとらえた波の姿

 巨大な波が飛沫をあげて立ち上がり、波間に浮かぶ押送船も操舵不能のようです。近景では曲線や斜めの線で大きく躍動する波を描き、遠景では水平のぼかしを背景に敷いて泰然とした富士の姿を浮かび上がらせています。近と遠、動と静の劇的な対比が本図の見所といえます。北斎は『北斎漫画 二編』で「寄浪」と「引浪」を描き分けたように波の様態に関心を寄せていました。形なき水の姿を捉えようとする、北斎の鋭い観察眼と描写力が結実した作品といえるでしょう。

菱田春草《秋景(渓山紅葉)》1899(明治32)年

近代日本画のなかの“水”

 明治以降、日本の画家たちは西洋の遠近法や明暗法による絵画表現に影響を受けた作品を多く生み出すようになります。横山大観とともに日本画革新運動を推進した菱田春草は、師・岡倉天心の「空気を描く工夫はないか」という問いに応える形で無線描法の新技法を開発。その、いわゆる「朦朧体」初期の大作であるこの作品では、画面全体にぼかしの技法がほどこされ、水気を含んだ大気の質感や紅葉が浮かぶ水面の様子が巧みに表現されています。

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日本の版画

歌川広重《東海道五拾三次之内 池鯉鮒》(新庄コレクション)1834~36(天保5~7)年頃

 当館の収集方針のひとつが「日本の版画」です。前身の県立博物館から移管された、松江市出身の浮世絵蒐集家・新庄二郎氏の「新庄コレクション」(472件)と、同じく松江市出身で創作版画運動を牽引した版画家・平塚運一氏の版画コレクション(363件)を核に、日本の版画史を概観できる体系的なコレクションの形成を目指し、館独自の収集活動を行ってきました。これに加え2017年度には、津和野町出身の北斎研究者・永田生慈氏より、北斎に関する「永田コレクション」の一括寄贈を受けたことで、当館の版画作品の総数は3,300件を超えています(2022年現在)。その内容は、初期浮世絵版画にはじまり、葛飾北斎や歌川広重の代表作、明治期の小林清親の東京名所図、大正期以降の橋口五葉らの新版画、平塚運一らの創作版画、川瀬巴水や織田一磨が描いた島根の風景版画、さらに戦前から現代にかけて国際的に活躍した、長谷川潔、浜口陽三、浜田知明、横尾忠則、李禹煥、山本容子らの作品など、幅広い年代における多彩な版種の作品を収めています。

葛飾北斎《冨嶽三十六景 山下白雨》(永田コレクション)
天保初期(1830~34)頃

浮世絵版画の名品

 題名の「白雨」とは夏のにわか雨のことです。山頂付近は晴れわたっていますが、暗い山腹には一筋の稲妻が走り、にわか雨が地上に降り注いでいるのでしょう。瑞雲のような重々しい雲の表現が観る者の視線を自然と下へと導き、その先に広がる漆黒の裾野が、底知れぬ自然の力強さを暗示しているようです。永田コレクション本は、板木の欠損具合や山肌の色合いから推して、希少な初期の摺りと考えられます。

島根県立美術館の浮世絵コレクション

橋口五葉《髪梳ける女》1920(大正9)年

新版画のパイオニア

 明治末から大正にかけて伝統木版画の世界に新しい息吹を与えた新版画運動。その端緒を開いた橋口五葉は、浮世絵の工程と同じく彫師・摺師らの職人と協働して気品ある美人画を制作しました。英国の画家ロセッティが描く“象牙の首”を求めて見つけたモデルを描いたとされるこの作品では、髪を梳く艶やかな女性の姿がしなやかな線と柔らかな色彩によって見事にあらわされており、雲母摺りの背景がそれを鮮やかに引き立てています。

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織田一磨《松江大橋吹雪の夜》1931(昭和6)年

創作版画にあらわされた島根の風景

 明治後半におこった「自画自刻自摺」を旨とする創作版画運動を牽引した織田一磨は、大正11年に松江市出身の平塚運一の招きで同市を訪問。そのまま数年間滞在し、やがて市内赤山に創作版画研究所を開設するまでに至ります。松江を愛し水辺の風景を多く描いた織田にとって松江大橋はお気に入りのモチーフとなり、この作品でも橋を俯瞰で捉えながら、吹雪で霞む松江の情景を石版画特有の柔らかなタッチで味わい深く描き出しています。

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国内外の写真

奈良原一高≪地下道 緑なき島 軍艦島〈人間の土地〉より≫(車輪の作品)1957年 © Narahara lkko Archives

 山陰では、松江藩9代藩主・松平斉貴を嚆矢とし、早くも文久年間に松江に写真術がもたらされました。以来、各時期に重要な写真家を輩出しています。明治期の亀井茲明、大正期から昭和初期の芸術写真の時代には塩谷定好、モダニスムの植田正治、戦後の日本の写真を牽引した奈良原一高、現在世界のトップ・アーチストとして活躍する森山大道。こうした事歴を顕彰しつつ、島根県立美術館の写真部門では、「ダゲレオタイプから今日まで」の写真の歴史を辿るコレクションを収集しています。海外作品は、写真と絵画という視点に着目し、フランス、アメリカを中心に、イギリス、ドイツ、オーストリアなどの写真を収集しています。
 国内外の写真史を彩る写真群、実数約4,000点を、各回約120点、年4回の展示替により、テーマを設定してご紹介します。

ジュリア・マーガレット・キャメロン≪フローレンス≫1872年

海外の写真

 ダゲレオタイプから今日までの、写真史を代表する写真家たちの作品群をご紹介します。
 とりわけ、絵画と写真の関係に着目して、コレクションしています。19世紀フランスの香気あふれる「フランスの写真」、19世紀末から20世紀初頭、写真を絵画と比肩する芸術にと欧米に広まった「ピクトリアリスム」、両大戦間の芸術の流れのなかで機械の眼の精緻さを生かした「モダン・フォトグラフィ」、「カメラワーク」から始まるアメリカの20世紀写真を通観する「アメリカの世紀」などのテーマで展観します。「夏休み」を中心としたベルナール・フォコン展も開催しています。

森山大道≪バトントワラー 〈にっぽん劇場写真帖〉より≫1967年
©Daido Moriyama Photo Foundation

島根ゆかりの写真1

 日本の写真は、山陰ゆかりの写真家である奈良原一高、森山大道、塩谷定好、植田正治の作品収集に力点を置いています。奈良原一高は、戦後≪人間の土地≫で登場し、日本の写真表現を塗り替えました。世界最大規模の奈良原コレクションとなります。森山大道もまた、写真表現を根底から覆す先鋭的な写真群を生み出し、現在、国際的にも注目されています。さらに、隠岐の海を撮影した杉本博司の≪海景≫も全52点のコレクションとなります。

塩谷定好≪村の鳥瞰≫1925年

島根ゆかりの写真2

 明治期には、津和野藩主亀井家13代・亀井茲明が、日本の美術振興を志し写真術をドイツから持ち帰りました。大正期から昭和期の芸術写真の時代には、塩谷定好が活躍しています。島根半島沖泊を写した代表作≪村の鳥瞰≫をはじめ、印画紙の上にメディウムを塗り、油絵の具で描き起こし、蝋燭の油煙で仕上げるという独特の手法で創られた美しい作品群が約750点収蔵されています。また次代の植田正治は、「砂丘群像演出写真」という独自のスタイルを生み出し、境港の砂浜、鳥取砂丘、島根半島、簸川平野など山陰の自然を舞台に、モダニスムの写真の高みを創り出しました。両者とも国際的な評価を浴びています。

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木を素材とした彫刻

澄川喜一《そりのあるかたち》1992年

 豊かな森林文化をもつ日本では、木は暮らしのあらゆるところにいつもあるとても身近な存在といえるでしょう。立体造形の歴史においても、明治期に「彫刻」や「工芸」といった概念が生まれるはるか以前からさまざまに加工して用いられてきた主要素材です。一木から彫り出される作品は、もとの木が持つ味わいがよくあらわれ、部材を組み合わせる作品は、自在な構成が可能となります。また現代では、合板など加工材も彫刻に使用されています。
 島根県からは、恵まれた自然環境と木の文化を背景に、日本近代彫刻史上重要な彫刻団体「日本彫刻会」(会頭:岡倉天心)の結成メンバーとなった米原雲海・加藤景雲や、「そり」と「むくり」をテーマに制作を行う澄川喜一ほか、木を素材とする彫刻家を輩出しています。それら近現代木彫を中心に、広く国内外の彫刻作品を収集しています。

米原雲海《竹取翁》1921年

島根県ゆかりの近代木彫

 江戸から明治へ工芸的で緻密な技巧を駆使した荒川亀斎、上京し高村光雲に学んだ世代に、木彫界のリーダーとして活躍した米原雲海、高い写実性で光雲とも強く結びついた加藤景雲、自らが「気刀彫り」と名付けた彫法に挑んだ内藤伸らがいます。島根県が育んだ近代木彫のコレクションです。

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戸谷成雄《森 Ⅶ》1993年
撮影:武藤滋雄

木を素材とする現代彫刻

 植木茂による暖かみある有機的形態、建畠覚造による合板の積層、豊福知徳による鑿で穿つ孔、江口週による素木の量塊感、戸谷成雄によるチェーンソーで刻む跡、遠藤利克による炭化させた木肌ほか、木の表情は実に多様です。伝統的な材料でありながら、新しい造形表現においても魅力の尽きない、木の素材を中心とした現代彫刻のコレクションです。

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高村光太郎《手》1918年

日本の近代彫刻

 江戸時代からの木彫の伝統に西洋の写実性を取り入れ近代につなげた高村光雲、その子で、フランスの思潮、特にオーギュスト・ロダンを我が国に紹介し近代彫刻を牽引した高村光太郎、生命感溢れる新鮮な造形で彫刻界に大きな影響を与えた荻原守衛ほか、日本近代彫刻史を概観するうえで重要な作家による作品のコレクションです。

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島根の美術(日本画)

石本正《裸婦立像》1980(昭和55)年

 島根の近代日本画における美術団体活動の先駆けとなったのが、明治30年代、和田翠雲が主唱して結成された山陰絵画協会で、展覧会を開催するなど地元日本画家達の研鑽の場となりました。また特筆すべき来県作家としては、明治時代の田能村直入、富岡鉄斎、横山大観、山岡米華、大正時代の速水御舟、小茂田青樹が挙げられますが、なかでも直入、青樹は長期間滞在して島根の風景を数多く描いています。
 島根県出身者では田中頼璋(邑南町)、中原芳煙(美郷町)、小村大雲(出雲市)、落合朗風(出雲市)、竹田霞村(出雲市)が秀でており、南画家では中国に雄飛して上海南画院を創設した西晴雲(大田市)を輩出しています。一方、戦後の現代日本画の一翼を担う作家として傑出したのが、橋本明治と石本正です。いずれも浜田市出身で、舞妓や裸婦などの華やかな女性像を最も得意としました。石本の故郷への想いにより開館した浜田市立石正美術館は、彼の大部分の作品を収蔵・展示しています。

小村大雲《神風》1917(大正6)年頃

小村大雲

 小村大雲は島根県出雲市平田町出身の日本画家。京都画壇の山元春挙に師事し、春挙の画塾早苗会を支える四天王の一人と称せられました。大雲は1917(大正6)年の第11回文展に同名作を出品し、前年に続き特選を受賞しましたが、この作品はその後に依頼を受けて再制作したものです。鎌倉時代に起こった元寇が題材で、蒙古軍の襲来に対抗する日本軍の奮戦を、緻密な時代考証を基に描き上げています。武具の細密描写が大きな見所です。

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落合朗風《肥牛・痩馬図》1921(大正10)年

落合朗風

 落合朗風は明るくモダンな作風により主に東京で活躍、40才の若さで急逝した日本画家です。父が島根県平田の出身で、朗風も幼時住んだことがあり、本籍は終生平田に置きました。この屏風は朗風が再興第8回院展に応募した自信作でしたが、左隻の肥牛図のみが入選し右隻の痩馬図は落選しました。この審査に憤慨した朗風は、以後日本美術院への応募をやめ京都へ転居します。本作は院展での当落が影響したのか、長い間左右が離れて所蔵されていました。

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橋本明治《鶴と遊ぶ》1969(昭和44)年

橋本明治

 橋本明治は島根県浜田市出身の日本画家。大胆な構図、強靱な描線と明快な色彩で “橋本様式”と呼ばれる独自の画風を確立し、日展を主な舞台に活躍しました。この作品は第1回改組日展の出品作で、明治の主要なモチーフである鶴と舞妓を同一画面に組み合わせ、背景は川の流れを想起させる半ば抽象的な描写がなされています。明治はこの作品を描くため、鶴の生息地として有名な北海道の釧路湿原を初めて訪れスケッチを重ねました。

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島根の美術(洋画)

矢田清四郎《支那服の少女》1927(昭和2)年

 島根における洋画(西洋の様式で描かれた油彩画・水彩画の総称)の歴史は、松江出身の小豆沢碧湖がその嚆矢とされています。明治10年代に横浜で写真術と洋画を学んだ碧湖は、明治15年頃に一時帰郷し島根県にはじめて洋画の技法を伝えたのです。この時碧湖に就いて洋画を学んだのが堀櫟山と森本香谷で、前者は松江に方圓学舎という画学校を開き洋画の普及に努め、後者は公教育において水彩画を普及する役割を果たしました。櫟山の方圓学舎で学んだ石橋和訓は、のちに渡英して肖像画家として活躍することになり、さらにその石橋に一時師事した矢田清四郎は、東京美術学校に進んで優美な女性像を描く、という系譜も見られます。明治の終わり頃には全国的な水彩画ブームの中で松江でも大下藤次郎や丸山晩霞らを講師に招いて水彩画講習会が開かれ、そこに参加した草光信成、木村義男、平塚運一といった青年たちがやがて島根の洋画界をリード。戦後の島根洋画会の結成につながりました。

石橋和訓《美人読詩》1906(明治39)年

世界に羽ばたいた島根の画家

 現在の出雲市出身の石橋和訓は、明治36年イギリスに渡り、ロンドンのロイヤル・アカデミーで英国の伝統的な肖像画技法を身につけ、卒業後はおもに肖像画家として国内外で活躍しました。この《美人読詩》はクッションにもたれかかりながら本を読む女性を描いたもので、モデルはイギリスの女優といわれています。黒いドレスによっていっそう引き立てられたその端正な横顔が見る者の眼を捉えて離さない、当館を代表する一点です。

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草光信成《四人の子等》1927(昭和2)年

中央での活躍

 島根に限らず、地方で芸術に目覚めた青年たちは、さらに勉強するため上京するのが常でした。出雲市出身の草光信成は、東京美術学校(現・東京藝術大学)に学び、卒業後に発表した《四人の子等》を含めて、当時の官展である帝展で三度特選を得るという快挙を成し遂げています。同じく出雲出身で東京美術学校に学んだ矢田清四郎は、師である岡田三郎助や小林萬吾を彷彿とさせるような優美な女性像を得意とし、美校在学中に帝展に入選するなど大いに活躍しました。

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松本竣介《鉄橋付近》1943(昭和18)年

島根ゆかりの画家たち

 本県出身ではないものの、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の三男として生まれた小泉清、妻の郷里である松江に眠る松本竣介など、島根ゆかりの画家たちも忘れることができません。また、来県して当地の青年画家たちに影響を与えた大下藤次郎、小出楢重、斎藤与里といった画家たちも島根に大きな足跡を残しました。島根の美しい風土も多くの画家たちの心を捉え、小林萬吾や須田国太郎などが印象的な風景画を描いています。

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島根の美術(工芸)

永原雲永《布志名焼 色絵秋草図茶碗》江戸時代末期

 島根では陶芸をはじめ漆工や木工など様々な工芸作品が生み出されてきました。
 江戸時代には松江藩の求めに応じ茶道具が制作されます。特に茶人としても名高い七代藩主松平治郷(号不昧)の頃には、漆工の小島漆壺斎や木工の小林如泥、楽山焼の長岡住右衛門貞政、布志名焼の土屋善四郎政芳(雲善)などにより優れた作品が生み出されました。
 明治時代になると坂田平一が八雲塗を生み出し、高橋孝道らが漆芸作家として活躍します。布志名焼では複数の窯元が共同して会社を設立し、黄釉日用陶器のほか輸出陶器を制作しました。
 昭和時代には安来市出身の陶芸家・河井寬次郎が活躍します。河井の働きかけにより県内では民藝運動が巻き起こり、舩木道忠や息子の研兒らは民藝に影響を受けた陶芸作品を生み出しました。平成17年には出雲市出身の陶芸家・原清が重要無形文化財「鉄釉陶器」保持者に認定されています。

土屋雲善《布志名焼 瀬戸写水指》江戸時代末期

出雲焼

 楽山焼と布志名焼の総称です。江戸時代、楽山窯と布志名焼の土屋窯・永原窯は松江藩の御用窯として茶陶器を制作しました。楽山窯は二代藩主綱隆が萩藩に陶工を所望し、三代綱近の時代に萩から来た倉崎権兵衛が始めます。土屋窯は七代藩主治郷(不昧)の命で土屋善四郎芳方が興しました。二代政芳は卓越した腕前で不昧から「雲善」の号と瓢箪形印を賜りました。永原窯は与蔵順睦が開窯し、不昧から御茶碗師を拝命されています。

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勝軍木庵光英《菊図中次》江戸時代末期

漆壺斎と勝軍木庵

 ともに江戸後期の島根の漆工師を代表する人物です。漆壺斎は代々松江藩塗師棟梁を勤めた小島家の五代清兵衛にあたります。七代藩主治郷(不昧)により「漆壺斎」の号を賜り、不昧好みの茶道具を制作しました。勝軍木庵は名を宗一といい、貞玉斎光英と号しました。九代藩主斎貴の命により、江戸の名工梶川清川について蒔絵を学んだと言われます。斎貴から「勝軍木庵」の号を賜りました。優れた茶道具をのこしています。

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河井寬次郎《白地草花絵扁壷》1939(昭和14)年

河井寬次郎

 河井寬次郎は大正から昭和にかけて活躍した安来市出身の陶芸家です。松江中学校を卒業後、東京高等工業学校に進学し窯業を学び、京都市立陶磁器試験場に勤め独立しました。一つの作風に留まらない多様な作品を生み出しており、木彫作品や詩の制作、家具や金工のデザインも行いました。柳宗悦や濱田庄司らとともに民藝運動を興したことでも知られます。当館では河井の陶芸作品を時代ごとに網羅的に収蔵しています。

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多彩な作品

絵師不詳《洛中洛外図(島根県本)》元和(1615~24)中期(島根県企業局蔵・当館寄託)

 「水」や「島根ゆかり」といった当館ならではのテーマに沿った作品以外にも、日本や西洋の美術の流れをたどれるよう美術史上重要な作品の収集に努めています。近世絵画では、絢爛豪華な《洛中洛外図》(島根県企業局蔵)をはじめとして、伊藤若冲の《鶏図》、山本梅逸の《紅白梅図》といった名品を所蔵。近代日本画では横山大観や菱田春草、近代洋画の分野では高橋由一、黒田清輝、青木繁、岸田劉生といった日本を代表する画家たちの作品が並びます。一方、西洋絵画では、日本の洋画家たちに強い影響を与えたラファエル・コラン、ジャン=ポール・ローランスといったフランス・アカデミスムの画家たちの作品も収蔵しており、その写実的な人物画は、水辺の風景を描いたモネ、シスレーら印象派の作品と好対照をなしています。西洋と日本、江戸時代から現代まで、描かれた当時の状況も想像しながら、多彩な作品の数々をお楽しみください。

伊藤若冲《鶏図》1789(寛政元)年頃

若冲の家族愛あふれる鶏図

 江戸時代中期を代表する画家・伊藤若冲は、自宅で飼っていた鶏を写生し、緻密で華やかな鶏図を得意としました。この作品でも、尾羽を優雅に立てた雄鶏の姿を、斑紋に彩られた美しい羽やゴツゴツとした質感の脚など、細部まで丹念に描いています。その足下でしゃがむ雌鶏は、こちらにお尻を向けたユーモラスなポーズで、その側には愛らしい3羽のヒヨコが寄り添っており、家族の温かい愛情を感じさせる作品です。

ラファエル・コラン《エリーズ嬢の肖像》1885年

フランス・アカデミスムの画家コラン

 コランは温和な画風で、フランス画壇で成功をおさめたアカデミスムの画家でした。日本では特に、黒田清輝、岡田三郎助、和田英作ら明治期にパリに渡った洋画家たちが、師事したことで知られます。《エリーズ嬢の肖像》では、ピンク色の大きなリボンのついた白いドレスを着て、「輪回し」の輪と棒を持ったエリーズ嬢の姿が、細部まで入念に仕上げられています。女性の肖像画を得意としたコランの繊細な表現によって、少女の魅力がよく伝わってくる作品です。

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岸田劉生《自画像》1914(大正3)年

近代洋画の巨匠による自画像

 画家にとって自画像はもっとも身近なテーマのひとつですが、日本の洋画家たちの中でも岸田劉生ほどそれにこだわりを見せた画家はいないのではないでしょうか。劉生は大正2年から翌年にかけて集中的に自画像に取り組んでおり、生涯に手がけた自画像の大半がこの時期生み出されたといいます。同じ頃、友人・知人たちの顔も片っ端から描き、その制作熱は「岸田の首狩り」と揶揄されたほど。顔へのこだわりがうかがえるエピソードです。

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屋内外の彫刻

清水九兵衞《語り合い》1999年

 島根県立美術館では、屋内外に多くの彫刻作品を設置しています。
 美術館へといざなう前庭では、まるで訪れた人々が向かい合って対話しているかのような造形の《語り合い》が迎えます。彫刻と周囲の「アフィニティー(親和)」をテーマに制作した清水九兵衞の作品で、ランドマークであると同時に、建物に違和感なく溶け込んでいます。
 正面玄関へと向かうアプローチには、イタリア具象彫刻の伝統に根ざしたヴェナンツォ・クロチェッティの作品が、また、館内も随所に国内外のブロンズ彫刻が常設展示されています。
 全面ガラス張りで明るく開放的なロビーから外に目を転じると、宍道湖畔のエリアには彫刻がゆったりと配され、自然と響き合う豊かな景観が広がっています。展示室での作品鑑賞はもちろん、美術館の建物を含む周辺環境もあわせ、全体を鑑賞空間としてお楽しみください。

オーギュスト・ロダン《ヴィクトル・ユゴーのモニュメント》1897年

屋内彫刻

 人間の内的生命を表現したオーギュスト・ロダン、モニュメンタルで力強い構成を追求したエミール=アントワーヌ・ブールデル、明快なフォルムの女性像を多く手がけたアリスティッド・マイヨールといった近代フランスを代表する彫刻家による作品を中心に展示しています。
 また展望テラスでは、柴田善二のユーモラスな動物彫刻が親しまれています。

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籔内佐斗司《宍道湖うさぎ》1999年

屋外彫刻

 美術館周辺には8作品の屋外彫刻があり、うち6作品が宍道湖岸に設置されています。島根県立美術館のシンボルモニュメントで、公共空間に設置された優れた彫刻作品に贈られる本郷新賞(第10回)を受賞した澄川喜一《風門》ほか、「風」「地」「光」「遊」をテーマに制作された抽象彫刻作品があります。また、12羽のうさぎで跳躍を表現した籔内佐斗司《宍道湖うさぎ》が人気を集めています。

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北斎コレクション

葛飾北斎《冨嶽三十六景 凱風快晴》(新庄コレクション)天保初期(1830~34)頃

 当館は約3,000件の浮世絵の作品・資料を所蔵していますが、特に江戸時代を代表する浮世絵師・葛飾北斎(1760-1849)に関しては、質、量ともに充実した内容を誇っています。この北斎コレクションの中核を成すのが、津和野町出身の北斎研究者・永田生慈氏(1951-2018)旧蔵の「永田コレクション」(2017年度寄贈)です。北斎が各年代で手がけた錦絵、摺物、版本、肉筆画の各分野、多様な画題の作品を細大漏らさず網羅しており、その中には北斎生涯の代表作、世界で一点または数点しか確認されていない貴重な作品・資料が数多く含まれています。さらに蹄斎北馬、魚屋北溪ら門人たちの作品も幅広く収めており、その総数は2,398件を数えます。これに従来当館が所蔵していた、松江市出身の新庄二郎氏旧蔵の《冨嶽三十六景》や島根県が独自に購入した作品群を加えると、その総数は2,500件を超えます(北斎の作品はその内約1,600件)。単館のコレクションながら、変化に富んだ北斎の生涯を通覧できる内容であり、これこそ当館北斎コレクションの大きな特徴と考えています。

島根県立美術館の浮世絵コレクション

世界に一点しか確認されていない貴重な作品

 鍾馗は病床の玄宗皇帝の夢に現れ、病をもたらした疫鬼を退治したとの伝説から、古来魔除けの神として信仰されました。江戸時代には男児の無病息災を願い、端午の節句で掛軸や幟が飾られ、特に朱描の図には疱瘡(天然痘)除けの効験があると考えられました。漢画色が強い本作品は、北斎が「叢春朗」を号した34、35歳頃の作で、「春朗」の落款をもつ肉筆の本画(完成作品)としては現存唯一という貴重な作品です。

葛飾北斎《鍾馗図》(永田コレクション)1793~94(寛政5~6)年

葛飾北斎《亀図》(永田コレクション)1798(寛政10)年

北斎研究上の重要作・資料の宝庫

 寛政十年(1798)、北斎が「宗理」から「北斎辰政」へ改号した際、北斎自らが出資して制作し、知己に配ったとされる摺物です。上部の賛は、友人の書家・稲葉華溪によるもので、北斎が信仰していた北辰(北極星)の光が増し、改名により益々北斎が活躍するようにとの願いが記されています。北斎がどの画派にも属さない独立した絵師となることを宣言した記念碑的摺物ですが、現存数は極めて少なく、永田コレクションに2点が収められています。

葛飾北斎《文昌星図(魁星図)》(永田コレクション)1843(天保14)年

北斎生涯の代表作

 北斗七星の第一星「魁星」は中国で文運を司る神として信仰され、造形化される際には、「魁」の字が「鬼」と「斗」から成ることから、斗(枡)を持つ鬼形の姿で描かれました。北斎が描く魁星もこれに倣い、手足が三本指の鬼が枡を手にしています。筋骨隆々たる赤い体躯を宙に浮かせ、天の六星を見上げるその姿には、どこか神秘的な印象を受けます。熱心な北斗信者であった北斎を象徴する、晩年期を代表する作品の一つです。

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菊竹清訓の設計した《島根県立美術館》

島根県立美術館

 《島根県立美術館》(1998年竣工)は、戦後日本を代表する建築家・菊竹清訓によって設計されました。その設計には、渚が調和の中に豊かな表情をつくるというコンセプトが込められています。宍道湖畔の景観と敷地のもつ特徴を生かし、波打ち際に盛り上がった「洲浜」をイメージしたデザインが特徴的です。
 40年前、菊竹は当館の前身である《島根県立博物館》(1958年竣工、現島根県庁第三分庁舎)を設計しました。まだ20代後半だった菊竹は、1957年に来県し、田部長右衛門に案内され訪れた出雲大社本殿の建築に感動したことを語っています。その後、《出雲大社 庁の舎》(1963年竣工、現存せず)を完成させ、国内外の建築賞を受賞し名声を高めたのでした。
 当時の県知事・田部長右衛門に信頼された菊竹は、《島根県立図書館》(1968年竣工)、《島根県立武道館》(1970年竣工)の建設に携わりました。《県立博物館》と《県立美術館》をあわせて、菊竹による4つの公共建築を松江市内でみることができるのです。

1960年代の島根県立博物館と白潟小学校(右上)

白潟小学校と美術館

 《島根県立美術館》は白潟小学校の跡地に建てられています。小学校は1962年に完成しましたが、その前年、《出雲大社 庁の舎》の設計のために島根県を訪れた菊竹は、小学校の建設についての意見を求められました。まだ起伏のはげしい砂丘だった予定地を見た菊竹の意見によって、小学校の基本設計が変更されたという記録が残っています。菊竹は、当館の建設地を早い時期に訪れていたのです。《県立博物館》以来、県内で多くの建物を設計し、何度も来県した菊竹は、島根の風土を深く理解していました。

美術館エントランスロビー

宍道湖を望むエントランスロビー

 当館1階のエントランスロビーからは、宍道湖の眺望を楽しむことができます。来館者は建物に囲われた入り口から、ガラス面を通して見える湖に向かって北西の方向に《県立美術館》に入ります。これは、冬の北西からの強い季節風を避けるようにと考えられたものでした。菊竹は30年前の《県立図書館》の建設時にも、入り口とロビーに工夫をこらしました。菊竹は、市民が公共の施設に日常的に気楽に訪れることができるように、入り口とつなぎの空間であるロビーをとても大事に考えていたのです。

上空からの島根県立美術館

改修工事

 菊竹は、1950-60年代に出雲大社で考えたことが自身にとって原点となったと述べています。そこで菊竹が考えたことのひとつは、出雲大社の「きわめておおらかな空間」が、長く受け継がれていることについてでした。40年後、当館の設計にあたった菊竹は、《県立美術館》のなだらかな大きな屋根に、古代出雲のおおらかさのイメージを重ねています。菊竹は2011年に亡くなり、当館は、2021年から大規模な改修工事を実施しました。約一年間の休館を終え、当館は引き続き未来に向かって活動を続けています。

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